YASURAの野球ノート

こんにちは! 某国立大学教育学部2年時のYASURAと申します。 現在、軟式野球部に所属しており、一人暮らしをしながら文武両道に励んでおります。 日々の生活の中でのちょっとした「意識」や「気付き」が教師になる上で、あるいは野球部の顧問になる 上で重要になると考えております。 そこで、私の考え方や気付きを共有して、皆さんの意見をぜひ聞かせていただきたいです。

努力できる人、そうでない人

悔しい!⇒次どうする?

こんにちは!YASURAです。

今日の選抜高校野球の準決勝では習志野(千葉)が明豊(大分)に、東邦(愛知)が明石商業(兵庫)にそれぞれ勝って決勝にコマを進めました。習志野の快進撃はうれしいばかりです。

そんな習志野高校の試合後のインタビューで小林監督が「1人でできないことは、2,3人で、、、」という言葉を仰っていました。高校野球の象徴である全員野球が全面に現れた試合だったのかなと監督も見ている人も感じたのかなと思いました。

 

余談はここまでにしておいて、今日は努力できる人そうでない人について書いてみたいと思います。

まず、努力の根源を考えてみましょう。それは悔しいという気持ちではないかと思ってます。「○○さんは自分よりも点数が高かった」「○○大学に試合で負けた」というような自分ではない何かに自分よりも上回られたときに人は悔しいと感じ、いつか超えてやろうと思うわけです。(最近は悔しいとすら思わない人が多いみたいなのですがその話は後日書きます。)

そこで、人を上回る選択肢は2つ出てきます。それは、

①相手以上の実力を身につけるために努力する

②相手を落として、自分が上に立つ 

というものです。もちろん努力できる人は①に、そうでない人は②に分類できるでしょう。では、①と②では何が違うのか考えてみましょう。

①の人は、まず悔しいと思った後、なぜ相手の方が上回ったのか、自分が及ばなかった原因は何かということを考えます。そこで自分が何を改善すれば相手を上回れるかを考え、そして行動に移していくというものです。この時、意識のベクトルは自分に向けられています。これが、努力のできる人です。

一方、②の人は悔しいと思った後、「相手が自分を上回っていた」という結果だけに目がいきます。しかし、その事実にどうしても納得がいかないので、その時は偶然相手が上回っただけで、能力は自分の方が勝っていると考えます。これを言葉にして口に出すことを言い訳と呼べるでしょう。言い訳をすれば、自分の世界観の中で勝手に相手を落として自分が上回っていると勘違いできます。しかし、いつになっても本当に相手を上回ることはできません。なぜなら、意識のベクトルが自分に向けられることがないからです。これが、そうでない人です。

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努力できる人とそうでない人の図

②が行動に移ってしまう例が、「いじめ」ではないかなと考えています。いじめている人は大概いじめられている人の何らかの自分にはない能力を妬んでいるように思えます。だから、暴言や暴力で相手を落として優越感を得たいと思ってしまうのではないでしょうか。(「いじめ」の原因はもちろんこれだけではないと思いますが、あくまで一例として挙げています)

ここまででわかるように努力できる人とそうでない人は、悔しいと思ったその次の行動に大きな違いがあると思います。皆さんが日頃努力家だと思っているあの人は、きちんと自己分析と改善のステップを踏んでいるに違いありません。努力できる人になるか、そうでない人になるか、これからの行動でぜひ意識してみてください。

 

 

今後もできる限り毎日更新していきたいと思います!ぜひ読者になってください!

コメントもよろしくお願いします!

 

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